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兎の角論

眠井うさぎです Twitter:@nemui_usagi_

インターネットと価値

 

 先日、プチ整形をした。

 

 やったのは二重。埋没法で、手術が終わった後の腫れた目を写真に撮り続け、身内だけに公開しているツイッターにアップした。5日目で「腫れが大分引いたな」と思い、1日目から5日目までの比較画像を作成、ツイッターに公開した。なんだか有益なアカウントみたいで嬉しかった。

 

 その後、元々アイプチを駆使して幅の広い二重にして化粧することが多く、その段々狭くなる二重に物足りなさを感じてきた。いつも通り鬱に陥り、「もっと広く二重にすればよかった」「でも広すぎても自分は文句を言っていただろう」とまたもやツイッターで独り言を言った。

 

 

 ふと考えがよぎる。

 自分の辛さがツイートによって一つのコンテンツとして昇華するなら、それでいいのだと。

 昇華することによって失敗してもいい気持ちになる。その失敗自体が価値なのだ。例えば「整形した後の経過を報告するブログ」は価値がある。私も施術した後はいろんなブログやツイッターを漁り、自分の経過と見比べた。たぶん多くの人は手術する前にそれらを見て、自分の今後はどうなるのか、と先人の導きを乞うだろう。

 

 失敗が一つの「成功」の形となる。整形だけに限らず美容グッズの購入報告だってそうだ。そして世の中の不満を言ったり、仕事であった人の悪口を言ったりするツイッターのアカウントだって、それを公開するまでは1人で抱える「嫌なこと」に過ぎないが、公開することによって共感を産んだり、賛同者と交流できたり、これは付随的な物ではあるが反応を得ることで承認欲求を満たすことができる。嫌なことが一つの「良いこと」に転身する。

 

 これらのツイッターのアカウント(やブログなどのインターネット公開をする人)は、そういう面を無意識的に(意識的な人もいるだろうが)持っていて続けているのだという気持ちになった。

 

 これは彼ら(彼女ら)に限ったことではない。私はツイッターが大好きで、一人でいるときは大体その時思ったことを呟いている。そして呟くことで「一人じゃない」という気持ちになる。自分以外の誰かに発信している気持ちになる(当たり前だが)。

 もし道で転んだとして、そこに友人がいればきっと笑い話になるだろう。でも一人でいたらどうか?周りを見渡して、人がいたら恥ずかしく、一人でも虚しい。膝を払って痛みを抱えながら何もなかったかのように歩くしかない。

でも私にはインターネットがある。

ツイッターがある。

 「さっき転んで痛かった」と呟けば笑いのネタになるかもしれない。ならなくてもさっきまでの虚しさは半減する。なぜなら「ひとりじゃないから」。

 

 

  インターネット(私は主にツイッターをしているのでツイッターの話ばかりになってしまった)で自分自身を発信していくことは大きな力を持っている。0をプラスに転換することができる。無価値を価値のあるものにする。一つのコンテンツとなれば、それは昇華であり、成功だ。